善通寺について
善通寺について
今から450年くらい前に覚阿上人が寺を創建しました。もとは時宗四条派大本山金蓮寺末三大寺の一寺としてたびたび法主を出した由緒ある寺院です。本堂は宝永3年(1706)の大修理を受けていますが、移築当時の様式をそのまま伝えているようです。
本堂前には秦武文の碑が建てられ、境内八角堂には首無地蔵尊がまつられて信仰を集めています。
善通寺の尼崎の指定文化財
善通寺本堂
桁行11.5m、梁行15mの南を正面とする平入建物で、寄棟造の屋根は途中で段差をつけて葺く錣葺(しころぶき)です。簡素な外観に比べ、内部は内陣外陣の天井や小壁に草花や龍・鳳凰などが描かれ、華麗な装飾が施されています。宝永2年(1705)4月に上棟、そして翌年9月に竣工していますが、現状の仏壇周りの状況などから、本尊(ほんぞん)厨子(ずし)が作成された江戸時代後期(18世紀後半頃)に改造が加えられたと推定され、建立当初は現在とは異なった古風で閉鎖的な堂内となっていたとみられます。改変はみられるものの建築年代は明らかであり、市内に現存する唯一の時宗寺院本堂として貴重な遺構です。
善通寺本堂
附、紙本墨画龍図
この龍の絵はもともと、本堂の天井に描かれていました。上から龍に見下ろされるのは、迫力がありました。
震災で被害に遭い、現在は額に入れられて本堂の壁に立て掛けられています。
陣天井画の鳳凰図と同じく、円山応挙(まるやまおうきょ)の門弟長沢蘆雪(ながさわろせつ)の養子で、1847年に81才で亡くなった、長沢蘆洲(ながさわろしゅう)の作とみられます。
附、紙本墨画龍図
秦武文(はたのたけぶん)
尊良親王(たかよししんのう)の家来。
戦争に敗れ、尊良親王は高知県へ流されました。
それを追いかけてきた姫(奥さん)が尼崎の港から高知へ向かう船を待っていたところ、海賊にだまされ連れ去られてしまいました。そこでお供をしていた侍がこの秦武文です。
秦はこの責任を負い切腹し海へと沈んで行きました。
姫をさらい意気揚々と海賊船が鳴門海峡にさしかかったあたりで、嵐とともに海からなんと秦武文の怨霊が姫を返せと現れたのです。
さすがの海賊も恐れをなし、姫を小舟に乗せて開放しました。
後に尊良親王と巡り合いハッピーエンドとなりました。秦の思いも通じ成仏できたことでしょう。

殿に対し忠節を尽くした秦武文の思いは碑となり現在善通寺にあります。
秦武文(はたのたけぶん)の碑
首無地蔵尊
首から上の事に御利益があります。

由来
今から三百年前、善通寺にありがたい地蔵さまがまつられていました。
ところがある日、心無い者が首から上をとって庄下川に捨ててしまいました。
それ以後は、首のない地蔵様、「首無地蔵尊」と呼ばれたそうです。
ある時、尼崎沖で漁師が漁をしていたところ、地蔵さまの御首が偶然網にかかりました。信仰心の厚い彼はその御首を家に持ち帰り、朝夕手を合わせていました。
しかしその漁師、「ある理由」から地蔵さまの御首を善通寺へ持っていくことになります。
その「ある理由」とは・・・
毎夜、夢に地蔵さまが現れ、こうおっしゃるのです。「善通寺に返してくれ。さすれば首から上の病を治してみせよう。」
何度も夢に現れるものですから、いてもたってもいられなくなり、善通寺の学解(がくげ)上人のもとへ相談に行きました。
彼の言葉を聞いた上人は、試しに御首を地蔵さまの胴体に戻してみることにしました。
すると夢のお告げ通り首と胴体がピッタリ一致したのです。
驚いた上人は、この地蔵様が尋常でない事を理解し、広く世の人々の篤志を仰いで地蔵堂を建立し地蔵様をおまつりしました。その後、病気・入学・老人ボケなど、首から上に関する願い事で、お参りする人々は絶えなかったといいます。
しかし昭和20年6月1日、太平洋戦争による空襲で御堂が消失してしまいました。だがなんと御首から上は、そのまま南を向かれた状態で全く無傷のまま発見されたそうです。ちなみに御首から下は粉々に破壊されていたといいます。
この出来事により地蔵様は御首から上だけになりました。
その後、昭和37年7月、当時の檀家、信者の方々に多数の御協力を得て、ついに現在の八角堂が新しく建立されました。
お堂内のお厨子には御首が安置されており、厚くおまつりされ今日に至っております。

※現在、地蔵様の御首は一般公開しておりません。
首無地蔵尊
首無地蔵尊